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神話集解説

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もうひとつの宇宙像

タイ・レイ・タイ・リオ 紬(ちゅう)記解説

 

石倉敏明

 

神話と対称性

神話は、言葉と想像力によって織りあげられる、宇宙規模の物語だ。その中には、はるか旧石器時代から現代にいたる人間の体験や考え方が、まるごと、繊細に織り込まれている。
物語をつむぎ出すのは、人間ばかりではない。無骨な石ころ、草原を駆ける野生動物、森に 茂(しげ)る樹々、大海原の中を泳ぐ魚、海底を這(は)う貝、夜空に浮かぶ月や星、地中を潜る蛇。こういった主人公が、人間とまったく同じ資格で登場し、とてもユニークな事件の数々をくりひろげる。
「昔々...」とか、「夢の時代に...」といった独特の語り口調に導かれて、私たちは神話の時空に引き込まれていく。すると、まるで映画の一場面のように、いままで押し黙っていたはずの生物や無生物が、いっせいに口を開き、騒々しく語りはじめるだろう。驚いたことに、彼らは世界のはじまりや、自分たちの来歴について、とても豊かな知識を持っている。神話は、私たちがふだん聞くことのできない、そうした自然の声を翻訳する、「もうひとつの言葉」なのだ。
神話の思考は、ものごとを大胆かつ謙虚に推理する。世界中のあらゆる生き物や無生物は、どんなふうに世界を見たり、聞いたり、体験しているのだろう。それを知るためには、私たちは堅いエゴの殻を破り、人間中心の 傲慢(ごうまん)な世界の見方を、捨ててしまわなければならない。世界にやわらかく動いているこの現実を、そのまま体験してみよう。そしてそれを、物語として表現してみよう。動物や植物は、ことによると、人間なんかよりずっと鋭く、鮮やかに、世界を知覚(ちかく)しているかもしれないぞ。ウサギやカエルは人間よりもよく音を聞いているし、鳥や魚は人間の知らない空や海を知り抜いている。クマやトラはどんな国の王様よりも堂々とふるまっている...。神話はこんなふうに、人間と自然をまったく同じ土俵で比較し、そうやってとらえたものごとの特徴を、適確に表現するのである。
こんなふうに、神話は宇宙的な法則のもと、人間とほかのあらゆるものとを同等にあつかおうとする。たとえば世界中に伝えられた多くの神話の中では、人間と動植物が同じルールにしたがいながら、宇宙の一部として働いている姿が、いきいきと描かれている。自然界の事物だけではない。神話はまた、死者や、目に見えない精霊をも、同じ宇宙のルールにしたがう存在として描き出すのだ。人間と自然、生者と死者、生物と無生物といった異質な領域に住むものどうしが、互いの自律性を保ったまま、宇宙的な法則性のもとに共存するという世界観。こうした神話特有の考え方に、現代の人類学者は、「対称性の思考」という、なんとも興味深い名前をあたえている(中沢新一『カイエソバージュ』全五巻、講談社選書メチエ)。
「対称性」とはなんだろうか。それは折り紙が折られるように、または 綾取(あやと)りを拡げていくように、ある法則性のもとに運動する、心の現実である。「対称性」はある違いや誤解が解消されたり、非対称性や不均衡が溶解されたりしていった果てに現れる現実だ。そこではもともと異なって見えた物が、たった一つの折り目によってつながっていたり、じつは同じ平面の裏表に過ぎなかったりすることが、明らかになる。
異質な原理どうしを折り返し、互いに結びつける「対称性の思考」の働き。それは人間の心と宇宙という、一見すると遠く離れた二つの源泉を結びつけ、両者のあいだに生じる大きなギャップを、無数の関係の 襞(ひだ)を折ることによって巧みに関係づける。これこそが、旧石器時代の先史芸術にはじまり、古今東西の偉大な思想、現代のすぐれた芸術や科学の発見までをつらぬく、一貫した心の現実なのだと言えるだろう。
私たちにとって本当に必要な、時間を超えて受け継がれる思想は、こんなふうに、現生人類の黎明(れいめい)の時代から、すでに存在していたのだと考えることができる。人間と馬が結婚するという物語は、現実的にはクレイジーな事件に過ぎないけれど、そんな物語によってしか表現できない「愛情」という次元が、私たちの心の中にはたしかに存在している。人間と動物の実存を、分け隔てなく考える「対称性」という思考の原理がなかったら、私たちはこの宇宙の中で、完全に孤立してしまうことになっただろう。「対称性の思考」は、現実には解消不可能な矛盾すら先取りして乗りこえてしまう。調和をめざすその働きによって、人類の心はとてつもない飛躍を遂げ、現実では不可能な動物との結婚すら、物語として語り継いできたのだ。

 

神話という織物

神話という「もうひとつの言葉」は、どこまでも具体的な、人間の感覚の世界から生まれてくる。熱い/冷たい、明るい/暗い、生のもの/火にかけたもの、といった感覚の対立項を経糸(たていと)に、天上/地上、男/女、生/死といった象徴の対立項を緯糸(よこいと)として組み合わせながら、それは、えもいわれぬような世界のイメージを織り上げていくのである。人びとが世代に世代を継いで見聞きし、匂いを嗅ぎ、味わい、手で触れた世界の感触が、言葉と思考の豊かな資源である数々の記号や象徴と織り合わされて、ユニークな布地をつくり上げていくことになる。
こうして織り上げられた布地の中から、まずはその 経糸を手繰(たぐ)ってみよう。ある神話の経糸には、人びとが世代を超えて経験してきたさまざまな感覚のかけらが、ざっくりと織り込まれている。色鮮やかな蝶の美しさ、馬の瞳の底無しの深さ、 渦(うず)を巻いて飛び散る 潮(しお)の烈しさ、空に立ちあがる虹の神々しさ......決して言葉では表現し尽くすことのできない、強烈な自然の印象。それは、いつの時代にも、決してただ一つの物語の中に凝(こ)り固まってしまうことはない。どんな物語も、結局完全なものではないのだから、リアリティを失って崩壊し、古びていってしまう可能性を常に宿している。しかし、ある日、ある瞬間に誰かが感受した鮮烈な体験や、ある民族が体験した決定的な出来事は、物語のかけがえのない「価値」となって、神話の中に織り込まれる。神話が語ろうとしている出来事の重要性は、ここに込められている。単純なものごとの意味には収まりきらない「価値」が、神話の経糸である。
次に、神話の 緯糸を手繰ってみることにしよう。神話の物語を解(ほど)いて、緯糸を取り出してみると、今度は神話という物語を語り継いできた、それぞれの社会やそれを取り囲む自然の様子が姿をあらわす。結婚の制度、「聖なるもの」の基準、料理の方法、お祭りの作法、色彩や音を感じる感性のあり方、さまざまな動物たちの性格、太陽や月、洞窟や湖のもつ象徴的な意味などが、時間を超えて受け継がれる長い糸となって、神話の物語から引き出されてくるはずだ。要するに、歴史の中で積み上げられて来た、ものごとの「意味」を決めるさまざまなコード(尺度)が、そこには織り込まれている。
物語の緯糸となるこうしたコードは、経糸である事件や出来事によって変形し、もともとの「意味」が完全に変わってしまうこともある。だからそこには、これが正解というような、唯一の、絶対的なコードは存在しない。たとえばある地域では太陽と月は姉妹であり、別の地域では夫婦となる。太陽が男で月が女性の場合もあれば、その逆もありうる。同じ民族の中でも、場所によってその位置はひっくり返ることもある。たとえば日本列島では、かつてある時代には男性だった太陽神が、異なる文化を持つ集団どうしの接触によって、やがて女性に代わっていったと考えられている。ひとつの社会の中でも、時代によってその位置づけは変容し、その変化に応じて、宇宙のイメージ全体が、柔軟に再編成されていくわけである。
いまの神話学は、個々の出来事や、個人の体験のように無時間的な物語の軸を「共時性」、後者のように時間を超えて受け継がれる物語の基盤を「通時性」と呼んで、それぞれの神話の織り込み方や、織り込まれた紋様を解読しようとしている。「共時性」と「通時性」の交点にこそ、個人と集団、人間と自然、生者と死者、有限と無限、空間と時間、目に見える世界と見えない世界が、同時に織り込まれる。時間を超えた伝統と、瞬間瞬間の体験の強度は、それらひとつひとつの編み目の中で織り合わされる。無限にひろがっていく現実の世界と、限りのある言葉の世界とは、そうやってつなぎとめられているのだ。
いずれにしても、こうして織り上げられた物語は、人びとを冷気から護るナヴァホ族のブランケットのように、前の世代から後の世代へと、脈々と受け継がれていくだろう。そして、やがて古くなり、もう使うことができなくなったぼろぼろの布地は、「ぼろ織」(「裂(きれ)織」「さおり織」とも言われる)の技法と同じように、切り裂かれ、解体されて、再び別の新しい織物を織るための繊維として用いられることになる。神話はこうしていつも、みずからの古くなった繊維の破片を切り裂いて、ま新しい、別の物語の組織の中に再生させる。それは何度でも古い文脈を解体して、新しく生まれ変わるのだ。数百年ごとに自分の翼を焼いて復活するという、伝説上の「火の鳥」のように。
こんなふうに比喩によって世界をとらえる神話は、科学的な推論に慣れた現代人にとっては、ぶっきらぼうで取っ付きにくく感じられるかもしれない。しかし、神話独特の語りに慣れてしまえば、そこに文学の源流となる豊かな着想と共に、科学的な観察の 萌芽(ほうが)となる鋭い視点が秘められていることに気付くはずだ。神話には、なんと多彩な自然の様態が描かれていることだろう。本書に集められた、比較的短いエピソードの数々にもそれはうかがえる。桑の葉をむしゃむしゃと食べながら、まっ白な、きれいな糸を紡ぎだす原初の蚕。ぶあつい暗闇の雲に穴を穿(うが)ち、光の射す天の穴を開けようとしているカササギの群。世界を覆う洪水のなか、果敢にも水の中に潜って、水底の泥を取ってこようとする鳥や亀の雄姿。自分を釣り上げた人間に向かって意味深げなメッセージを語りかける、奇妙な鰻や魚たち。勇ましく足を踏みならし、大地を蹴って、草原を駆け抜ける野生の馬の姿――。
神話や民話といった、人々が数百年、数千年(ことによると数万年...)の時間をかけて語り継いできた物語の中には、人びとが自然を深く観察することによって身につけたするどい洞察力や、のびやかな想像力が、これでもかといわんばかりに溢れ返っている。それは主観と客観、人間と自然とを結び、折り返す「対称性の思考」の産物であり、声なきものと言葉の世界とをつなぐ翻訳の技術である。神話は人間の心を宇宙全体につなぎ止める 蝶番(ちょうつがい)として、これからも生み出され、歴史以前の体験と、まだ現われていない未来の出来事を結び続けるだろう。

 

タイ・レイ・タイ・リオ」という神話

二〇〇八年におこなわれた高木正勝コンサート「タイ・レイ・タイ・リオ」は、芸術のはじまりの光景を思わせる、鮮烈な音楽体験をもたらした。巨大な洞壁(どうへき)を思わせるスクリーンには、映像が次々に現われては消え、幻影の渦(うず)を描いていく。ステージは荒波に揉まれる大海にも、白馬のひろい背中にも、荒れ果てた高原にも、緑生い茂る草原にもなった。寄せては返す、大きな波、小さな波の連なりのように、音楽と映像のうねりが幾重にも連なって、巨大なイメージの織物を織り上げていく。それは光と音と映像によって織りなされた、新生の神話であった。
現れては消える映像の視覚的なリズムと、世界各地の音楽を織り込んだ音のうねりによって、聴衆は一気に、現生人類共通の記憶を呼び覚まさせられる。それは実は、私たち日本列島の住人のルーツ探訪の旅でもあった。「タイ・レイ・タイ・リオ」とは、アフリカの大地を出た後、ユーラシアの北方を超えて、あるいは南の島々から黒潮に乗って列島に渡って来た人びとの流れや、西方の道を辿って中国や朝鮮半島からやって来た人びとの流れが合流する、神話的な場所(トポス)である。宮沢賢治の「イーハトーヴ」がそうであるように、「タイ・レイ・タイ・リオ」は、現実の日本列島にしっかりと根を下ろしながら、世界中に開かれた音楽の群島を形成する。それぞれの島は、神話的な多様性をもった複数の宇宙として、互いのリズムと旋律に饗応(きょうおう)している。
「タイ・レイ・タイ・リオ」は、いまやCDや映画や神話集となって、それぞれの新しい宇宙像を、世界に再生しようとしている。神話は、私たちの宇宙と同じように、それぞれの部分のランダムな運動性をはらんだ、高次の秩序の集合体としてできあがっている。このプロジェクトもまた、想像力による複数の銀河状宇宙の集合体として、世界中の神話が目指してきた「対称性」の全体像をかたちづくろうとしているように思える。
暗闇に覆われた世界に、鳥たちの努力によって太陽の光がもたらされるという神話は、「タイ・レイ・タイ・リオ」の全体像をあらわすのに、たぶん最適なイメージをあたえてくれるだろう(「アナテンガ」参照)。ヒマラヤ山脈以東のユーラシア各地と東南アジア、太平洋の島々や南北アメリカ大陸にいたる環太平洋の全域で、鳥たちが協力して、暗闇に覆われた世界に光をもたらすという神話が、語り継がれている。「タイ・レイ・タイ・リオ」というプロジェクトは、メディアを超えた大きな創造性のうねりとして、世界的な規模で広がる神話に、合流しようとしている。それは失われた「対称性」を探究し、もう一つの宇宙像を描く二一世紀アートの冒険として、未来の民族誌に記されることになるにちがいない。

 

『タイ・レイ・タイ・リオ紬記に集められた神話は、本篇のCDに込められた楽曲のイメージからそれぞれ連想されたもので、世界中の神話や民話テキスト、教典などから集められています。タイトルは、日本の絹織物に使われる素材の中で、もっとも頑丈で、緻密(ちみつ)に織り上げられるといわれる、紬(つむぎ)の織物をイメージしました。玉繭や天蚕からとれる不均質な糸を用いて織られる紬織は、日常着として用いられるラフな素材感と、絹糸に撚(よ)り(ひねり)を加えて織りこまれるタフな性質から、庶民の愛用する着物として各地に伝えられています。それは決して均一な繊維によってはつくりあげられていない、神話や民話の特徴をあらわしています。もっとも身近な、誰もが日常的に触れている世界を素材に、宇宙そのものの驚異的な美しさを見出す糸口を感じ取っていただけると幸いです。  

 
石倉敏明 Toshiaki Ishikura
 

1974年、東京生まれ。人類学(神話研究)。多摩美術大学芸術人類学研究所助手。 1997年よりインドやネパールで「山の神」神話調査を実施。2004年より大聖坊(羽黒山)の山伏体験を開始。月刊誌『すばる』『Well Age Woman』等にエッセイを発表。2005年より多摩美術大学芸術人類学研究所の設立準備に携わり、同研究所で各プロジェクトに関わる。2009年4月より現職。論文に「生を与えまたそれを奪う神」「シッキムにおける山の神」「ダーキニーの発生」「女神と対称性」など。

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